ナオコの旅

持っているものでやり遂げる 喜んでしようと思ったとおりに

異文化を説明するということ

学校で働いてみて思うこと

海外で教えていた、というのは、一つのステータス、になるらしい

学校説明に来られた私立高校の先生が、「うちには、面白い先生がたくさんいます。(スライドを見せながら)この先生は、カナダで日本語を教えていました」と言っているのを聞いたし、講演に来られた先生が、「僕はイギリスで日本語を教えていました」と自己紹介するのも聞いた

その度に、心の中で、「私はモンゴルで、日本語教えてたけどな」と思う

まぁ、英語圏じゃないから、意味ないな、と思う反面、希少価値は高いな、と思ったりもする

 

経歴を聞かれ、「モンゴル」と答えると、必ず、一度は聞き返される

それほど、日本とは縁遠い国なのだ

飛行機でたった4時間で行ける国にも関わらず

チンギス・ハーンという、史上最大の領土を支配した王がいたにも関わらず

モンゴロイドと人種分けされ、かつて私たちのお尻には蒙古斑があったにも関わらず

 

モンゴルについて、ほとんど知らない人が多い

というよりも、「発展途上国」について知らない人が多い

「水道の水が飲めない」

「日本に比べ、物価が安く、レートは変動しやすく、円よりはるかに弱い」

「おしゃれの感覚が違う」

「働くという感覚が違う」etc・・・

 

 

とにかく違いすぎるので、何も考えずに気楽に説明すると、ただ勘違いされて、異文化への溝を深めるだけで終わってしまう

私の話だけを聞いて、いちいち、矛盾を指摘してくる人もいる

頭がよすぎる人は、えてして視野が狭くなりがちなのかもしれない

 

 

国や文化を言葉で説明するのは難しい

空気のように、当たり前に根付いているから、文化なのだ

日本文化だって、やれ勤勉だとか、やれおもてなしだとか言うけれど、そうじゃないケースなんて、日本にいくらでもある

勤勉なのが日本文化なのではなく、人を勤勉へと向かわせる根本にある動機、勤勉が正しいと受け入れられ、推奨する人々の心、それが日本文化なのだと思う

文化には、多様な面があって、当たり前なのだ

それをある人は勝手に、よい悪いで判断しようとする

自分が育ってきた文化を、唯一無二だと信じ込んでいる人には、異文化は理解しきれないのしれない

でも、そういう人ほど、揺ぎ無く堂々と立っている

面白いなーと思う