ノアコの旅

思ったことや感じたことを、旅先からご報告!

読書録 『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』①

 

「しかし、海外を旅することで得られる有益な成果はこれだけではない。異国での生活ほど、事故を見つめるのに適した環境はない。逆説的に聞こえるかもしれないが、自分のことをもっとよく知りたければ、世界に飛び出すことである。他の民族、他の国々に接する場所ほど、自分のことが明らかになる場所はない。内省が始まるのは、目の前に別の世界があらわれるときである。(中略)ひとりで、自分の好きなように食べる方がずっといいと思ったものである。そのような環境では、孤独はひじょうに快いものとなる。独白と内省が日々の大きな楽しみとなり、客観的自己と主観的自己がたえず語り合っている。」

 

「ここで一つ述べておきたい。ぼくが病院の仕事に就いたのには、マルティン・ルターエアフルトの修道会に入ることになったのと同じような目的があった。ぼくがこの仕事に就いたのは、自分がその道で活動することを世の中から求められていると思ったからでもなければ、まして職業として選んだわけでもない(貧しくはあったが)。『来るべき天罰』から逃れる場所はそこしかないと思ったからだ。そこでなら肉欲を抑え、自己を律し、心の清らかな場所に到達して、天の王国を受け継ぐことができる、と。」

 

「彼は、その頃ぼくが悩まされていた難しい宗教上の疑問を解く手助けはしてくれなかったけれど、自分の人生と信仰を精一杯活かすことを教えてくれた。さらに慈善活動は、たとえどんなに崇高で繊細な気持ちに裏付けられたものであっても、その活動を通じて、苦しむ人々に恩恵をもたらすためには、明晰な頭脳と鉄の意志がなければならず、それがなければ、この実際的な世界では、ほとんど実際の役に立たない、といことも教えてくれた。(中略)院長はまさに実際的な人間の生きた見本だった。院長こそ、病的な狂信(そう呼んでよければ)に陥りかけたぼくを救ってくれた人だった。病的狂信に悩める者たちはこのようになる。

惨めさを嘆きながら、惨めな人々を遠ざけ、

どこか快い孤独の中で、

甘美な愛と怠惰な同情を心に抱く。」

 

「真の寛容さとは、ぼくの考えでは、自分の信仰には揺るぎない確信を持ちつつ、あらゆる正直な信念を許し、認めることである。何らかの真理を知ることができるという信念と、すべての真理を知ることはできないという疑念を持つことこそ、真のキリスト教的寛容さの基礎であり、あらゆる善意とすべての人々との平和的関係の源である。」

 

「たんなる『異教徒への憐れみ』程度の動機によるキリスト教伝道は完全に支持を失うだろうし、それが支持を失ったとしても宣教師を送る側も送られる側も大した存在はこうむあないだろうと、ぼくは心から信じている。」

 

「本質的でない事柄については、自由にやらせてもらいたい!」

 

「人の生涯にはそれぞれ神があらかじめ定めた一種の規範がある。人の成功は、この規範に自分を一致させることにある。その規範に到達できなくても、行きすぎても成功できない。完全な安らぎはそこにしかない。身体と精神を最大限に活かすことができるのは、規範の中を歩んでいるときだ。野心がなければそこに到達できず、能力を最大限に発揮して仕事を完遂することなく、この世から去ることになる。いっぽう、野心がありすぎると、そこを跳び越えてしまう。その結果、身体を壊して早死にする。人の選択する能力(自由意志)は、自分をこの規範に合わせることにある。自分をひとたびその流れに乗せてしまえば、努力して前進する必要はなく、ただその流れに乗った状態を保てばいいだけだ。この流れの中にあるどんな神の恵みもとらえて享受せよ。しかし、けっして流れの外に出て神の恵みを追い求めてはならない。この流れをさえぎるどんな障害も突破せよ。それは不動の山ではない。なぜならこの道は神が定めたものだからだ。それでも自分を頼みとしてはいけない。おまえが乗っている流れは神が定めたものなのだ。神はおまえのために船長も定めている。『これに聞け!』」

 

 

 名著。

これを読んで、日本文化の元で育った者が、イエス・キリストを信じる時に感じる苦しみや痛みは、いつの時代も変わらないのだなと思った。

キリスト教文化の元で育った人たちが、無意識に身に付けているある種の尊大さ、不遜さを、いちいちあげつらっていてはキリがないと思い、目をつぶろうと努める、その葛藤。

あまりにも堂々とした彼らの態度に、そんなことを感じる自分を責めてしまう痛み。

日本文化を知る者だけが持つ、切ないまでの繊細さが、今も自分の中に間違いなく脈打っている。

 

最近、思うこと。

「宣教は日常の延長にある。」

ある日、ふと心に浮かんだ言葉。

「己の地歩を固めよ」

「コンフォートゾーンを築け」

自分の生活基盤をしっかりと確立させることができれば、何を言われようとも、揺らがずにいられる。

私はこれまで、そんな当たり前のことを知らずに生きて来た。

内村鑑三の言う通りだ。私たちには、神の定めた規範があるのだ。これを「運命」とは呼びたくない。