ナオコの旅

持っているものでやり遂げる 喜んでしようと思ったとおりに

告別式を終えて

Mさんが天国へ召されてから、まだたった二日しか経っていないのに、前夜式、告別式を終え、早々と日常が戻ってこようとしています

たった二日前、Mさんに「ありがとう」と言ってもらったのに、Mさんは今はもうこの地上のどこにもおられません

 

多くの方に愛されたMさんでしたが、召されたのが、あまりにも急だったため、病室でお見送りできたのは、わずかでした

多くの方が、あと一歩というところで、間に合いませんでした

 

私はMさんに感謝の御礼を伝えることができたけれど、でも、本当はもっともっと伝えたかった人がいたんじゃないか、と考えていたら、Yちゃんが「皆の代表で、御礼を言ってくれてありがとう」と言ってくれました

 

たまたまその場所にいたのが、こんな不愛想で人見知りで恥ずかしがり屋の私で、にも関わらず、そんな私が、必死になって感謝をお伝えした、その想像を絶する低い確率に、こんな私をも気にかけてくださったMさんの心の広さが偲ばれます

 

Mさんの国籍を問わないたくさんの娘の代表として、Mさんに御礼を伝えることができたこと、今、心から主に感謝しています

 

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明日、前夜式

今日、悲しいことがありました

M兄(74歳)が天国へ召されました

数年前、糖尿病から片足を切断せざるを得なくなり、その後、ガンを発病、ずっと戦ってこられました

今はようやく、天国のイエス様の御元で過ごされていることと思います

 

思い起こせば、Mさんとの出会いは、13年前になります

教会へなんとなく通いはじめた頃、なかなか聖書を買えずにいた私に、Mさんは、

「なんか欲しいものは、ないか?」

と声をかけてくださいました

とっさに「聖書!聖書がほしいんです」と答えると、Mさんはちょっと驚いた顔をしながら、すぐに

「よっしゃ、今すぐ買いにいこ!」

とすぐその足で、教会の中に常設されている書店へ行き、小型の新改訳聖書を買ってくれました

 

それからも、いつも会うたびに、

「食事行こう!何食べたい?食べたいもん言い。おいしいもん食べさせたるで」

と声をかけてくださって、よく友人たちと一緒に、ご馳走していただきました

 

8年前、家族の反対を押し切って神学校へ入学する道を選んだ私は、大量の荷物をどうやって学校まで運ぼうか思案にくれていたところ、Mさんが、その役を買って出てくれました

Mさんが私の自宅へ迎えに来てくださって、布団やらスーツケースやらを車に運び込んでくれていると、一か月ほど前から一言も口をきいてくれなかった母が、家の奥から飛び出してきて、

「本当にすみません、この子をどうかよろしくお願いします」

と、泣きながら、Mさんに何度も何度も頭を下げました

その後、車を運転しながら、Mさんは

「ええお母さんやないか」

と、涙目になっておられました

 

それからも、Mさんは「お母ちゃんはどないしてんや」と、まだ救われていない母のことを、いつも気遣ってくれました

 

 

思い起こせばキリがないくらい、たくさんの思い出を頂きました

 

 

今日、Mさんの容体が危ないと聞いた時、私はたまたま教会にいました

教会の人たちが病院に駆けつける車に、私も同乗させてもらうことができました

病院に着いた時、Mさんはまだ意識もはっきりしておられて、私たちが駆け寄って手を握りしめると、はっきりした声で、

「ありがとう」

と言ってくれました

Mさんの娘さんのAちゃんが、あちこちに電話をかけながら、Mさんの汗をふいたりして、甲斐甲斐しくお世話されていました

Mさんの親友である、お隣の教会の牧師先生と奥様が来られて、奥様が、「Mさん、もうすぐ春ですよ」と言いながら、Mさんに聖歌『原に若草が』を歌い出され、私たちも一緒に賛美しました

その後、どんどん容体が悪化していき、病室にはモニターが運び込まれました

若い看護師さんは、モニターの処置が終えた後も、

「ついこないだ、私が旅行に行ってきた話を聞いてくれてたのに」

と、涙目になりながら、Mさんの手をしばらく、握っておられました

Mさんの御友人だという、韓国人の牧師先生が駆けつけて来られ、「祈ってもよろしいでしょうか」と、Mさんのために祈ってくださり、祈り終わると、それまで苦しそうに息をしていたMさんの様子が落ち着きました

やがて、モニターのてっぺんにある、危険状態を知らせるランプが、消えなくなりました

 

私はどうしても、Mさんに御礼が言いたくて、Mさんに駆け寄って手を握り、

「Mさん、Mさん、本当にありがとうございました。Mさん、私に聖書買ってくれて、ありがとうござました。KBIへ行くとき、荷物運んでくれて、ありがとうございました。韓国旅行も、一緒に行けて、感謝でした。いつも、私のお母さんのこと、気にかけてくれて、ありがとうございました。Mさん、また会いましょうね」

その後、大泣きに泣きました

Aちゃんが、反対側の手を握りながら、

「お父さんは、娘がいっぱいいるね」

と、優しく話しかけていました

 

気が付くと、お医者様が来られていて、

「4時33分 お亡くなりになりました」

と、告げておられました

病室が嗚咽で包まれました

廊下へ出て、心を静めていると、先ほどまでてきぱきと処置しておられた一人の看護師さんが、私をじっと見つめているので、軽く会釈すると、看護師さんは少しためらいながら、

「すごくいい方でした。様子を見に、カーテンを少し開けて、中を覗くと、笑って手を振ってくれました。いつも励ましてくれました」

と言って、泣いておられました

「そうですね、そういう方でした。私もいつも励ましてもらいました」

と、答えながら、Mさんは本当にすごいクリスチャンだったんだ、と改めて思われました

 

 

今年の1月、新年聖会で、Mさんは素晴らしい証をされました

後で聞いたら、お医者様からは絶対に無理だと言われていたそうです

でも、Mさんは信仰によって成し遂げられました

本当に素晴らしい証でした

 

 

昨年の11月、教会のバンクエットでも、Mさんは証をしておられました

証の中で、Mさんは、何度も何度も、

「教会はいいところです。皆さん、教会へ来てください」

と、おっしゃっていました

その姿が、今も目に焼き付いています

 

 

明日は前夜式です

いよいよ明日は卒業派遣式

皆さま、ご無沙汰しております

数か月以上、ブログを放置して、いったい何をしていたのか、と言いますと…

 

神学生ライフをエンジョイしておりました

この年になって、もう一度、学生生活を送れるなんて、夢のようでした!

クラスの皆、本当にありがとう!

 

 

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(クラス別祈祷会にて。日の出とともに)

 

最近の言葉より

ご無沙汰しております

だいぶ、季節は秋めいてきました

皆さま、いかがお過ごしですか?

 

最近、心に残った言葉のいくつかを書き残しておきます

 

ビジョンについて

・ビジョンとは、将来からの記憶

 

恐れについて

・恐れの反対は信仰

 

 

最近、読んだ本

悪魔の手紙 (C.S.ルイス宗教著作集1)

悪魔の手紙 (C.S.ルイス宗教著作集1)

 

私たちが恐怖するもの(CSルイス「悪魔の手紙」より)

1、現在の恐怖(例えば、戦争)

2、自分の恐れるもの(例えば、戦争によって体や心が負傷したり、死ぬこと

3、恐怖心そのもの(例えば、好ましくないと考えるもの)

4、恐怖の対象(戦争)

5、十字架

 

→ややこしいので、これらを、ネズミが苦手なドラえもんに例えてみました

1、ネズミがいるという状況

2、ネズミにかじられること

3、ネズミが怖いと感じる、心そのもの

4、ネズミそのもの

5、ネズミに対して死なねばならない自分自身の肉

 

恐怖は、人の心が恐怖の対象(例えば戦争や貧困など)から恐怖心そのものへと向かうなら、克服するのが容易になる

ドラえもんがネズミではなく、問題はネズミを怖いと思う心そのものにあると気づいたとき、ネズミ嫌いを克服できる

 

今、目の前にある現実の苦しみを甘受することは、たとえその苦しみが恐怖から生じている場合でも、はるかに容易で、たいてい神が直接介入される

 

 

寒くなってきました

皆さま、どうぞご自愛ください

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荒野を生き延びる

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皆さん、こんにちは!

今日もいいお天気ですね

2学期が始まって以来、走りっぱなしだった私ですが、今週、海外からゲストを招いての大きなイベントが終了、ほっと一息ついております

 

さて、先日、面白い本を読みましたので、早速こちらで紹介したいと思います 

荒野を生き延びる 霊的サバイバルのコツ

荒野を生き延びる 霊的サバイバルのコツ

 

 

人生の試練を荒野にたとえ、万一、サバイバルせねばならない状況に陥った場合、どうすれば生き残れるか、何を優先すべきか、について書かれた一冊

 

かのチャーチルは、史上最悪の危機に直面した際、

「もしも地獄の真っ只中にいるのなら、そのまま突き進むがいい!If you are going through hell, keep going)」

と言ったそうです

 

サバイバルにおいては、まず状況を把握しなければなりません

そうすることによって、平常心で前進することができ、何が必要なのかも見えてきます

 

本書によれば、まず第一に確認すべきは、装備

人生の荒野を渡るクリスチャンに必要な装備は、まず御言葉です

聖書の真理は、状況ではなく、私たちの視点を変えてくれます

偽りから私たちを守り、今、ここに置かれている理由を改めて思い出させてくれます

 

私たちにとって荒野は孤独な場所ではありません

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(第一コリント12:26)

 

「ある日私は、エペソ六章の『神の武具』の箇所を読んでいました。(中略)すべての武具が、前方からの攻撃に対するもので、背中を守る武具はひとつもありません。これはどうしたことだろうと思っていたとき、十八節が心の中に飛び込んできました。

 

『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。』(エペソ6:18)

 

(中略)クリスチャンというのは、互いを見守り、戦いの中で防御しあうことになっているのです。背中を守る武具がないのは、私たちが互いの背後を守りあうことになっているからです。(中略)もし読者が試練の中、戦いの中、あるいは不毛の季節の中に置かれているなら、あなたは兄弟姉妹に取り囲んでもらい、あなたのために祈り、注意深く、また忍耐強く見守ってもらう必要があるのです。」

 

では皆さん、今日はこのへんで

Let's keep going!

タニちゃんのこと

皆さん、こんばんは!

段々、気温が下がって、過ごしやすい季節となりました

秋です!

 

私の学校は寮住まい

7畳程の部屋に二人一組で暮らしています

2学期の私のルーミー、Mさんは、大の恐竜好き

備え付けの棚を飾る無数の恐竜関連のグッズから、彼女の器の大きさがしのばれます

 

さて、

実は私は子供の頃から、多肉植物の落ちた葉っぱを地面に置いておいて、発芽させるのが趣味なのですが、先日、かわいい芽を出し始めた葉をいくつか、家から寮に持ち帰りました

一つ分けてあげたところ、Mさんは大喜び

二人で近くにある学院内の菜園に土を取りに行き、それぞれ、小さな鉢植えを作って部屋に置きました

彼女は、自分の多肉植物に「タニちゃん」と、名前を付けました

以来、彼女が多肉植物を植えたガラスのコップをうっとり眺めている姿を、しょっちゅう目にするようになりました

ある日、いつものようにタニちゃんを眺めていたMさんが、

「ほら、見てください、草が生えてきました」

「それ、雑草ですよ」

「どんな草だろう」

「それ、雑草ですよ」

とうとう、Mさんは雑草も育て始めました

そして…

「ほら、ここ見てください。虫がいる」

「え」

彼女が差し出すガラスのカップをのぞき込むと、確かに土の中に小さなムカデがいるではありませんか

温かい部屋の中で、孵化したに違いありません

「死んでるんですか」

「うーん、どうだろう?…あ、生きてますよ!」(←嬉しそう)

「…それ、どうするんですか?」

「そうですねぇ、もうちょっと大きくなったら、外に逃がしてあげようかなぁ」

「…まさか、飼う気じゃないでしょうね、そんなカップで。それ放し飼いですよ」

 

 

そして、その翌日、恐れていたことが起こったのでした

「あれ?ムカデ、いなくなってる」

「え」

私の手前、自分の机周辺を、とりあえず、探してみるMさん

そんなMさんを見つめながら、(『あんな小さなムカデ、どこにでも入り込めるし、入り込んだら、まず探せ出せないな』って思ってるんだろうなぁ…)と思い、共存を覚悟したのでした

 

追伸

それ以来、暗闇で何かに触れるたびに、ビクッとなります

 

 

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タニちゃん                        (撮影協力:Mさん)

近頃迷子のアイツ

皆さん、こんばんは!

いつも愛読くださり、ありがとうございます

今日もよいお天気でしたね

 

最近、自分が行方不明です

きっかけは、先週、ある先生から言われた言葉

「あなた、自分のこと、気さくだと思ってたの?気さくっていうのは、オープンで、誰からも話しかけられる人のことを言うのよ。あなたは、全然気さくじゃないわよ~」

え、そうだったの!?

自分では結構、いろんな人とコミュニケーションとる方だと思ってたのに

歩いているとしょっちゅう道を聞かれるし…

「話しやすい」とよく言われるし…

違ってたの…

 

その後、クラスのHさんにそのことを尋ねてみたら

「確かにフルオープンではない気がする」

「じゃあ、何%くらいオープンに見えます?」

「うーん、50%くらい?」

半開きのドアから、顔だけ出して、外を伺う自分の姿が思い浮かびます

 

ついで、友達にも似たようなことを尋ねたら、

「うーん、ノアコ(仮)は、正直だけど、素直ではないよね」

という返事が返ってきました

うーむ…

 

確かに、人に対して、「ここまで」という明確なラインを持ってる気がする

それがどうしてなのかなんて、自分では当たり前すぎて、もう分からない

別段、気さくでオープンな人でなければならないわけではないのですが、私には、知らず知らずのうちに、被っていることが当たり前になっている仮面があるのでしょう

諦めて妥協したこと、こうでなければならないと信じ込んでいること、こうであってほしいと願っていること、見えないようにフタしてしまったこと…

様々な要素が絡み合って、今の私の仮面が構成されているわけです

本質ではないものをすべて取り去ったら、いったい何が残るのか

そもそも何か残るものがあるのか

 

ここにいると、そんなことを考えさせられます

2学期が始まっております

 

では今日はこのへんで

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