ノアコの旅

思ったことや感じたことを、旅先からご報告!

井上恭介著 「ヒロシマ 壁に残された伝言」

昨日、「ヒロシマ 壁に残された伝言」(集英社新書)を読みました。

こちらは内容をギュッと凝縮されたものが、中学国語の教科書に出典されています。

簡単に説明しますと、解体工事予定の校舎の壁の中から、原爆投下直後に書かれたと思われる様々な伝言が現れ、それが次年度用の原爆関係のネタを探し求めていたNHKプロデューサーの目に留まり、ドキュメンタリー取材されることになったものです。

原爆被害に関する生々しい表現は一切ありませんが、淡々と描かれるご遺族の方々の言動に、幾度となく心が揺すぶられました。

 

ヒロシマ ―壁に残された伝言 (集英社新書)

ヒロシマ ―壁に残された伝言 (集英社新書)

 

伝言が残されていた袋町小学校では、疎開するには幼すぎた小学校一、二年生、そして先生方が犠牲になりました。

その後、学校へやってきた人たちが目にしたものは、校庭に一人一人丁寧に並べられた子ども達の遺体と、その隣に折り重なるように倒れていた、力尽きた先生方の遺体だったのだそうです。

当時珍しかったコンクリートの建物は、救護施設として使用されることになりました。

やがて家族や知り合いを捜しに来た人たちが、灰で煤けた壁に伝言を書き残していきました。

一年後、学校が再開するにあたって、校舎の壁はすべて塗り直されたのですが、急いでいたのか、一部の壁がきちんと洗われないまま上塗りされたことによって、当時の伝言が奇跡的に漆喰の下に残ることとなったのです。

著者は、当時撮られた伝言の写真を元に、被害者名簿などから関係者を見つけ出し、インタビューを行なっていきました。

遺族の方々は伝言の前に立つと、研究者が最新機器を使ってどうにか割り出した、薄れて消えかかった文字を、肉眼ですらすらと読んでいったそうです。

そして、

「ああ、そうだったのか」

と呟かれた、そうです。

いなくなれば必死に探すし、どれほど絶望的な状況下にあっても心の底から生きていて欲しいと願うし、叶わぬ願いだと知りながらも、何年経っても、何十年経っても一目会いたいと思う、その心を家族の絆と呼ぶのだと思いました。

 

 

昔、妹と広島へ行った事があります。

なぜ、妹と一緒だったかというと、本当は、この旅は私の人生初の一人旅となるはずでした。当時、私は十代後半か二十歳位で、一人旅に憧れていました。

絶対に反対されると分かっていたので、家族には黙っていたのですが、出発直前テンションが上がってついボロが出てしまい、母に気付かれてしまいました。

母は「絶対にありえない!」と言い出し、どうしても行くのなら、と、妹にお供についていくように命じました。

私は、それでは意味がないと、何度も断ったのですが、今度は妹が、

「お姉ちゃん、友達いないの?可哀想」

と言い出し、懇願虚しく、妹と二人連れで行くことになったのでした。

妹は、私とは正反対で、なんでも計画を立てて、その通りに実行したいタイプなので、旅の間、私に振り回されることとなり、ずっと「ありえない」を連発していました。

宮島でのんびり夕焼けを眺めながら、

「いやいや、旅ってこういうものだから。ほら、お陰でこんなキレイな景色が見れてるでしょ」

と私が言うと、

「そうか、旅ってそういうものなのか」

と納得していました。

彼女は一見、頑固なのですが、こちらが驚いてしまうほど、根が純粋で素直なんですね。

やっぱり広島に来たからには、ということで、広島平和記念資料館に行くことになりましたが、そんな二人なので、館内では別行動をとることにしました。

妹が一通り見て戻ってくると、人目もはばからずに号泣している人がいたそうで、一体どんな人なんだ、と見ると、自分の姉だったそうです。

「恥ずかしくて、声かけられへんかった」

と言ってました。

言ってましたが、確かあの時、だいぶ経ってから、妹に声をかけられた気がします。

振り返ると、何とも言えない表情をした妹が立っていました。あの顔は忘れられない笑

我ながら、妹の苦労が偲ばれるエピソードですね。

 

袋町小学校の伝言を見てみたくなったので、今度、また広島に行って来ようかな。

では今日はこの辺で。

二学期はじまりました

皆様、ご無沙汰しております。

昨日今日と、まるで真夏が戻ってきたような暑さでしたが、皆様、大丈夫でしたでしょうか?

私は先月末から、再び学校現場へ戻り、常勤の臨時講師として働いております。

科目は国語です。

さて、学校ではいよいよ二学期が始まりました。

先週は、実力テストの採点に加えて課題のチェック、作文コンクールのための作品選びなどが重なり、デッドヒートを繰り広げておりました(※常に帰りたがる自分との)。

私は基本的に「明日できることは今日するな」をモットーに生きるぐーたら人間なのですが、この一週間、明日に延ばせるものが何一つなかった・・・

金曜日になって、ようやく定時で帰宅する際には、後ろの席のベテランの女性の先生が「よかったね」と我が事のように喜んでくださいました。ずっと私のパニック振りを心配しながら、見守ってくださってたんですね。ご温情が、アラフォーの心に沁みます!

 

ところで、妹のところの姪っ子の一人が、今春、中学校へ入学しました。

妹の家でしゃべっていたら、彼女が制服姿で帰ってきました。

ずっと楽しみにしていた制服姿なのに、いざ、目の当たりにすると、なんだか不思議な気持ちになりました。

ちょっと前まで、部屋の小さな段差を登れずに泣いてたのになー、とか、座布団に寝かせてみるとちょうどいいサイズだったことや、小さなこの子を抱っこした時の感動とか、母となったばかりの妹が、「こんなに小さいのに、ちゃんと足の裏臭いってすごくない?」と変な共感を求めてきたこととか、どうってことのない、ささいな思い出が胸をよぎりました。

「早く制服着替えておいでよ。汚れたら困るでしょ」

と、急かしたら、

「別に大丈夫やで。」

と姪っ子。おばちゃんのなんだか切ない心持ちなど、彼女はもちろん知る由もありません。

 

そして、教壇に立って生徒一人ひとりを見ていると、制服姿のこの子達も、ちょっと前までは座布団サイズで、段差が上がれずに泣いてたんだなぁ、なんて、深い感動を覚えるのでした。

 

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

最近、読んだ本。

海に住む少女 (光文社古典新訳文庫)

海に住む少女 (光文社古典新訳文庫)

 

 感想。

どこか、物悲しい雰囲気の漂うファンタジーです。

例えるなら、『千と千尋の神隠し』の海の中を走っていく列車のシーンのような。

こんなことを考えて表現する人がいたんだな、どういった目的だったんだろう、誰のために書いたんだろう、と、なぜかそんなことが気になりました。

 

なんか、このブログを楽しみにしてくださってる方もおられるようなので、たまにはアップして行こうと思っております(とか書くのも、これで一体何度目だ、って話ですが焦)

こんな拙文でも、どなたかのお暇潰しになれれば幸いです

ではでは、新しい週も、皆様の上に祝福が豊かにありますように!

天空の城ラピュタ

皆さま、ご無沙汰しております

暑い夏が一段落し、いよいよ2学期が始まります!

 

さて、昨日のラピュタのノーカット版はご覧になりましたか?

久々に観たその衝撃を、こちらに書き残しておくことにしました

 


金曜ロードSHOW!「天空の城ラピュタ」★原作・脚本・監督:宮崎駿 2019年8月30日

 

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まず、何が衝撃だったかというと、

ラピュタってこんなに悲しいお話でしたっけ…?

パズーもシータも、まだまだ子どもなのに、お父さんもお母さんもいないなんて…

物語序盤、屋根の上で、鳩に餌をやりながら、

「僕たち、親なしだね」

と、笑うパズーに、まず泣かされました

 

子どもの頃は、二人について、特に意識したことはありませんでしたのが、大人になって改めて見ると、二人の子供が懸命に生きようとする姿がけなげで切なく、二人が必死に呼び合う姿に、もう涙涙…

 

子どもの頃、そこはかとない物悲しさを感じてはいましたが、今回、物語の底辺に戦争のイメージが流れていることに気付かされました

ロポット兵によって、辺りが一瞬にして火の海になるシーンは大空襲を、ラピュタが兵器へと変えられ、海に放った砲撃が赤く膨れ上がって爆発するシーンは核実験を、連想させられました

私にはパズーとシータが、戦争孤児と重なって見えたのでした

 

宮崎監督や高畑監督が青春を過ごした時代は、今よりも戦争が身近だったんだと気付きました

製作当時は、冷戦真っ只中でもあり、核の恐怖は、今よりもずっとリアルでした

 

令和を迎えて、黒柳徹子さんがテレビでこう言ってました

「平成は戦争がありませんでしたもんね」

明治も大正も昭和も、その前の江戸も、ずっとずっと戦争がありました

平成は戦争がなかった

それは、決して当たり前のことではなかった、ということを、黒柳さんの言葉から教えられました

 

 

さて、子どもの頃から「ラピュタは恋愛物とは違うなぁ」と思っていたけれど、これは家族を失った子供たちが、同じ境遇の者と出会い、もう二度と失いたくないと懸命に努力する物語、だったのだな、と思いました

互いに見せる子供らしい無邪気な表情が、何ともいじらしくてたまりませんでした

というわけで今回、一番衝撃だったことは、いつの間にやら、自分の目線がすっかりドーラ目線になっていたこと(笑)

いやー、名作は、まるで鏡のように、自分を客観的に見せてくれますね

読書録 2019.8

皆さま、ご無沙汰しております

お元気ですか?

私は日本ですっかり羽を伸ばしております 

最後のランナー [DVD]

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今日は、久々に映画の感想をアップしてみようと思います

こちらです


最後のランナー

パリ・オリンピックの金メダリスト、エリック・リデルは、アスリートとしての栄光を捨て、自分が生まれ育った中国で、家族と共に宣教師として働いていましたが、やって来た日本軍によってリデルは捕虜収容所に入れられてしまい…というストーリー

 

日本兵役の皆さんの中国語なまりの日本語はさておき、役者さんたちの演技力が抜群!

まず、子役の子がすごい!本当にこれ、演技なの?と疑いたくなるほど

上手いとかを越えて、すごくリアルなんです

感情を爆発させて、大人の神経を逆なでし、八つ当たりをくらうシーンも、実にナチュラ

泣いて笑って、生きている子供がそこにはいました

 

そして、主役のジョセフ・ファインズ

物語後半、ある人物が重い病にかかるのですが、それからしばらくして、洗濯物の隙間から見え隠れするジョセフの目を見ただけで、ああ、彼は亡くなってしまったんだ、と分かるのです

ただそこに立っているだけなのに、直面させられている現実の重みが、観る者の心に衝撃となって伝わってきました

 

色んな意味で非常に重い内容を扱った映画です

 

ちなみに、主役のジョセフ・ファインズですが、今回、私はずーっと、「ラララ・ランド」「きみに読む物語」のライアン・ゴズリングだと思って観てました


「ラ・ラ・ランド」City of Stars映像

 

今、これを書くにあたってサイトを拝見し、ようやく別人だと気づきました

ジョセフ・ファインズは、「恋に落ちたシェイクスピア」の主役だった方ですね


Shakespeare in Love - Tazenda-Andrea Parodi

 

こうして見ると、エリック・リデルを演じた人とは、全くの別人に見えます

多少の経年変化はあるにしても、ただただ、すごい…

 

以前、ライアン・ゴズリングが、ジョーカー(ジャレッド・レト)だと勘違いしながら、「スーサイド・スクワット」を観終えたことのある私(その時は、めっちゃ幅の広い役者さんだなぁと思いながら、観てました)

どうも、私にはこの手のタイプは判別が難しいようです…

 

 

ついでに、先日観た映画もアップしておきます

ベルリン・天使の詩 (字幕版)
 

 

天使は基本的に、ただ観察して報告するだけ、ということで、主人公の天使は、人間に憧れています

彼が図書館に入ると、人の目には見えないのですが、そこらじゅう天使だらけなのが面白かったです

そして、彼が人間になりたがるその理由

「靴を脱いで、足の指を広げてみたい」とか…

なんか、新鮮でした

 

 

機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる

機械より人間らしくなれるか?: AIとの対話が、人間でいることの意味を教えてくれる

 

 

読み応えたっぷりの一冊

チャットで会話をしながら、どちらが人間かを当てるチューリングテストで、人間としてコンピュータに勝利すべく、テスト対象に立候補した著者

絶対に勝ちたい著者は、事前に対策を練ろうと頭を絞ります

ところが、調べれば調べるほど、人間らしい人間とは何かが分からなくなっていき…という内容

 

「僕がこの考え―混合芸術、地衣類、手を取り合うサルとロボット―に興味を惹かれるのは、人間の置かれている状況をも言い表しているように思えるからだ。人間の本質とは、一種の混合主義である。最も優れていて、最も人間らしい感情とは、この地衣類のようにコンピュータと生物が融合した状態から生まれるのだと僕は思う。つまり、欲望と理性がぶつかり合って一つになり、己の限界をわきまえながら好奇心、関心、告発、驚き、そして畏敬といった感情をほとばしらせるのである。」

 

「会話をするコンピュータプログラムの歴史には、プログラム自体にもそれを開発した人間にも数多くの個性的な『キャラクター』が登場するが、《イライザ》にまつわる物語も面白い。来談者中心療法〔来談者(患者)への指示や診断をおこなうのではなく、セラピストが共感を示すことで気づきや成長を促す療法〕のセラピストをモデルに開発された《イライザ》の原理は実に単純で、ユーザーが自分で入力した言葉からキーワードを抽出し、文章として返す(「わたしは不幸せなの」「ここに来ることで不幸せから逃れるための手助けが得られると思う?」だけだ。) なにを話せばいいのかわからなくなると「話を続けて」のようなきわめて汎用的な言い方をすることもある。ユーザーの文章を決められたパターンに当てはめて、あらかじめ用意された表現で返答する―『テンプレート照合』と呼ばれる―それが《イライザ》の唯一の能力だった。

 にもかかわらず、結果は驚くべきことだった。《イライザ》が最初に開発されたチャットプログラムであり、メモリや処理能力はゼロに等しく、わずか二〇〇行のコードで書かれていることを考えれば、信じがたいとさえも言える。初めて《イライザ》と会話した人々の多くは、本物の人間と会話していると信じて疑わなかった。」

 この結果、製作者であるワイゼンバウムは、《イライザ》の開発を取りやめ、キャリアを捨てて、方向転換した。恐ろしくなったのである。そして、自らの研究結果を批判した人たちを応援し、AI研究に反対する科学者となった。

 

「AIの登場は、労働市場における感染症や癌—その病名は『効率性』である―などではなく、一種のうじ虫療法〔うじ虫に壊死した細胞を食べさせ、傷口を治療すること〕だと考えればいい。AIは人間らしさを失った部分だけを食べ尽くし、人間を健康に戻してくれるのだ。」

 

「あらゆる意味の経済性を否定するという芸術家の意志表示」

 

「『君が“行き詰まる”と呼ぶものを、僕は作曲と呼ぶんだよ』と彼は瞳を輝かせながら話した。」

 

「ある程度の期間なにをするか学んだら、以後はやることがわかっているのだから、ただ実行するだけと考えがちだ。優れた役者とは、そのような考えを断固として受け入れない役者である。そう考えたときには死んだも同然だ。ロボットに取って代わられる。」

 

「僕にとって、定跡とは人生の象徴に思える。ほとんどの会話やチェスの対局と同じように、だれの人生も最初と最後は同じであり、そのはざまに、わずかだけ違いを生み出せる時間がある。揺りカゴから墓場へ。胚から灰へ。そのはざまで、人間は火花を散らすのだ。」

 

 

結局、いわゆる「ちょっと頭おかしい」言動が、実は最も人間らしい、という結論が面白かった

 

とにかく情報量が多かった

これ一冊で、5,6冊分くらいの内容がありそう

 

 

生存者ゼロ (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)

生存者ゼロ (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)

 

 

パンデミック小説

恐怖の対象が明らかになった途端、どうにも、興味が薄れてしまった…

なんでかな…

登場人物の誰にも、心を魅かれなかった…

こういう物語では、現場の真田広之と政府側の佐藤浩市、そして悪役に三木プルーンの人が必須なんじゃないのかな…

 

 

禁断のパンダ

禁断のパンダ

 

高級料理を、ここまで言語化できるんだ…!ということに、まずびっくり

そして、探偵役が全く魅力的じゃないことにも、驚かされました

内容は、「このジャンルでそう来たら、最後はそこに行くよね…」という…

それにしても、表紙と中身のギャップが半端ない

 

 

鬼憑き十兵衛

鬼憑き十兵衛

 

 

戦国時代を背景に、殺された父親の仇討ちを誓った無双の少年が、超絶美形の鬼に憑りつかれ、旅に出たところ、脚を怪我した異国人の美少女と出会う、という少年漫画風の物語だった気がする

私だけかな、何度見ても、表紙のイラストがなんだか残念に感じるのは…

 

 

サタンに立ち向かえ

サタンに立ち向かえ

 

これは面白かった

目からウロコでした

表紙はアレですが…

 

映画『最後のランナー』2016年 感想

皆さま、ご無沙汰しております

お元気ですか?

私は日本ですっかり羽を伸ばしております

 

今日は、久々に映画の感想を綴ってみようと思います

こちらです


最後のランナー

パリ・オリンピックの金メダリスト、エリック・リデルは、アスリートとしての栄光を捨て、自分が生まれ育った中国で、家族と共に宣教師として働いていましたが、やって来た日本軍によってリデルは捕虜収容所に入れられてしまうのでした…というストーリー

 

日本兵役の皆さんの中国語なまりの日本語はさておき、役者さんたちの演技力が抜群!

まず、子役の子がすごい!本当にこれ、演技なの?と疑いたくなるほど

上手いとかを越えて、すごくリアルなんです

子どもらしい感情を爆発させて、大人の神経を逆なでして八つ当たりをくらうシーンも、納得の上手さ

「子ども=可愛い」ではない、生きている子供がそこにはいました

 

そして、主役のジョセフ・ファインズ

物語後半、ある人物が重い病にかかるのですが、それからしばらくして、洗濯物の隙間から見え隠れするジョセフの目を見ただけで、ああ、彼は亡くなってしまったんだ、と分かるのです

ただそこに立っているだけなのに、直面させられている現実の重みが、観る者の心に衝撃となって伝わってきました

 

色んな意味で非常に重い内容を扱った映画です

まだ、私の考えがまとまってませんが、一緒に観た友人と色々話して、最終的に「有事の際には、宣教師の先生には、速やかに家族の元に帰国していただこうね」というところで落ち着いたのでした

 

ちなみに、ジョセフ・ファインズですが、今回、私はずーっと、「ラララ・ランド」「きみに読む物語」のライアン・ゴズリングだと思って観てました


「ラ・ラ・ランド」City of Stars映像

 

今、これを書くにあたってサイトを拝見し、ようやく別人だと気づきました

「恋に落ちたシェイクスピア」の人だったんですね


Shakespeare in Love - Tazenda-Andrea Parodi

 

こうして見ると、エリック・リデルを演じた人とは、全くの別人に見えますね

多少の経年変化はあるにしても、ただただ、すごい…

 

以前、ライアン・ゴズリングが、ジョーカー(ジャレッド・レト)だと勘違いしながら、「スーサイド・スクワット」を観終えたことのある私(その時は、めっちゃ幅の広い役者さんだなぁと思いながら、観てました)

どうも、私にはこの手のタイプは判別が難しいようです…

読書録 『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』①

 

「しかし、海外を旅することで得られる有益な成果はこれだけではない。異国での生活ほど、事故を見つめるのに適した環境はない。逆説的に聞こえるかもしれないが、自分のことをもっとよく知りたければ、世界に飛び出すことである。他の民族、他の国々に接する場所ほど、自分のことが明らかになる場所はない。内省が始まるのは、目の前に別の世界があらわれるときである。(中略)ひとりで、自分の好きなように食べる方がずっといいと思ったものである。そのような環境では、孤独はひじょうに快いものとなる。独白と内省が日々の大きな楽しみとなり、客観的自己と主観的自己がたえず語り合っている。」

 

「ここで一つ述べておきたい。ぼくが病院の仕事に就いたのには、マルティン・ルターエアフルトの修道会に入ることになったのと同じような目的があった。ぼくがこの仕事に就いたのは、自分がその道で活動することを世の中から求められていると思ったからでもなければ、まして職業として選んだわけでもない(貧しくはあったが)。『来るべき天罰』から逃れる場所はそこしかないと思ったからだ。そこでなら肉欲を抑え、自己を律し、心の清らかな場所に到達して、天の王国を受け継ぐことができる、と。」

 

「彼は、その頃ぼくが悩まされていた難しい宗教上の疑問を解く手助けはしてくれなかったけれど、自分の人生と信仰を精一杯活かすことを教えてくれた。さらに慈善活動は、たとえどんなに崇高で繊細な気持ちに裏付けられたものであっても、その活動を通じて、苦しむ人々に恩恵をもたらすためには、明晰な頭脳と鉄の意志がなければならず、それがなければ、この実際的な世界では、ほとんど実際の役に立たない、といことも教えてくれた。(中略)院長はまさに実際的な人間の生きた見本だった。院長こそ、病的な狂信(そう呼んでよければ)に陥りかけたぼくを救ってくれた人だった。病的狂信に悩める者たちはこのようになる。

惨めさを嘆きながら、惨めな人々を遠ざけ、

どこか快い孤独の中で、

甘美な愛と怠惰な同情を心に抱く。」

 

「真の寛容さとは、ぼくの考えでは、自分の信仰には揺るぎない確信を持ちつつ、あらゆる正直な信念を許し、認めることである。何らかの真理を知ることができるという信念と、すべての真理を知ることはできないという疑念を持つことこそ、真のキリスト教的寛容さの基礎であり、あらゆる善意とすべての人々との平和的関係の源である。」

 

「たんなる『異教徒への憐れみ』程度の動機によるキリスト教伝道は完全に支持を失うだろうし、それが支持を失ったとしても宣教師を送る側も送られる側も大した存在はこうむあないだろうと、ぼくは心から信じている。」

 

「本質的でない事柄については、自由にやらせてもらいたい!」

 

「人の生涯にはそれぞれ神があらかじめ定めた一種の規範がある。人の成功は、この規範に自分を一致させることにある。その規範に到達できなくても、行きすぎても成功できない。完全な安らぎはそこにしかない。身体と精神を最大限に活かすことができるのは、規範の中を歩んでいるときだ。野心がなければそこに到達できず、能力を最大限に発揮して仕事を完遂することなく、この世から去ることになる。いっぽう、野心がありすぎると、そこを跳び越えてしまう。その結果、身体を壊して早死にする。人の選択する能力(自由意志)は、自分をこの規範に合わせることにある。自分をひとたびその流れに乗せてしまえば、努力して前進する必要はなく、ただその流れに乗った状態を保てばいいだけだ。この流れの中にあるどんな神の恵みもとらえて享受せよ。しかし、けっして流れの外に出て神の恵みを追い求めてはならない。この流れをさえぎるどんな障害も突破せよ。それは不動の山ではない。なぜならこの道は神が定めたものだからだ。それでも自分を頼みとしてはいけない。おまえが乗っている流れは神が定めたものなのだ。神はおまえのために船長も定めている。『これに聞け!』」

 

 

 名著。

これを読んで、日本文化の元で育った者が、イエス・キリストを信じる時に感じる苦しみや痛みは、いつの時代も変わらないのだなと思った。

キリスト教文化の元で育った人たちが、無意識に身に付けているある種の尊大さ、不遜さを、いちいちあげつらっていてはキリがないと思い、目をつぶろうと努める、その葛藤。

あまりにも堂々とした彼らの態度に、そんなことを感じる自分を責めてしまう痛み。

日本文化を知る者だけが持つ、切ないまでの繊細さが、今も自分の中に間違いなく脈打っている。

 

最近、思うこと。

「宣教は日常の延長にある。」

ある日、ふと心に浮かんだ言葉。

「己の地歩を固めよ」

「コンフォートゾーンを築け」

自分の生活基盤をしっかりと確立させることができれば、何を言われようとも、揺らがずにいられる。

私はこれまで、そんな当たり前のことを知らずに生きて来た。

内村鑑三の言う通りだ。私たちには、神の定めた規範があるのだ。これを「運命」とは呼びたくない。

 

蓼喰う虫も①

皆さま、こんにちは!

面倒臭くて、部屋の蚊を退治せずにおいたら、日に日に巨大化していってて、ちょっと恐怖を覚えております

私は先月、無事日本に帰国し、ようやく落ち着いたような、次のステップへ向けて落ち着かないような、中途半端な日々を送っております

 

帰国して早々、家の者が急性胃腸炎で近所の病院へ救急搬送され、それ自体は大したことはなかったのですが、長旅の疲れもあってか、看病している間に私にも罹患してしまいました

お客がいらっしゃっているのに、内臓器官は一斉に開店休業

飲めど食えど、何一つ消化されないという不毛さ

そして、脳裏によみがえるある一つの記憶

そう、あれは、幼い頃にお寺で見せられた地獄絵

その中に描かれていた、飲んでも飲んでも、決して潤い安らぐことなく、未来永劫渇きに苦しめられ続ける餓鬼たち…

もしやあいつらのモデルは、急性胃腸炎の患者では…?

けれども、久しぶりに日本に帰国したこの身は、どうしても日本食が食べたい!

食べても無駄になると分かっている!

けれども、食べたいんだ!

食べては悶え苦しみ、のたうち回ってはまた食べる、その姿は、まさに地獄の餓鬼そのもの…(ちょっとは我慢して寝てろよ)

欲とはまこと恐ろしいものでございます…

 

その後、症状も無事収まり、食べたかったものを順に制覇

しばらくは近所のスーパーに行くのが、楽しくて仕方ありませんでした

そこは、まさに夢の国

食品売り場、それはまさにこの世の宝島!!

いったい、何度、買い物かご片手に踊り出したくなる衝動をおさえたことか

ビバ!日本の食卓!!!!

ああ!日本に生まれてよかった!

 

帰国後、ゆっくりした時間を過ごす中で、思わされたことの一つは、人生が折り返し地点に来たということ

私は子供の頃から本が大好きですが、名作だと知りながら、未だ手つかずのままのたくさんの物語があります

そろそろ片付け始めないと、間に合わなそうです

 

という訳で、記念すべき第一冊目がこちら

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

夜間飛行 (光文社古典新訳文庫)

 

 

 傑作です

私がどれくらい感動したかというと、私は気に入った文章を抜粋するのが好きなのですが、以下、まずはご覧ください

 

(以下、『夜間飛行』より抜粋)

「サンフリアンに着陸しようとエンジンの回転数を落としながら、ファビアンは疲労感に襲われた。ひとの暮らしにぬくもりを添えるなにもかもが、自分にむけて迫ってくる。人びとが暮らす家、いきつけのカフェ、いつもの散歩道の木立ち。彼は、征服した宵闇のなかに立つ覇者に似ていた。みずからの帝国の領土に思いをはせ、そこに人びとのささやかな幸福を見出す征服者である。いまは武装を解いて、ものいう気だるさや、体のふしぶしの痛みを心ゆくまで感じる必要があった。みじめさのなかにあってなお、人は豊かでいられるからだ。ひとりの素朴な人間としてここに住み、窓の外に、もう二度と目の前から飛び去ることのない景色を眺めてみたいと思った。それがこのつつましい村であろうとも、自分はありのままに受け入れることができるだろう。ひとは一度なにかを選び取ってしまいさえすれば、自己の人生の偶然性に満ち足りて、それを愛することができる。偶然は愛のように人を束縛する。」

 

偶然は愛のように人を束縛する!!!

しびれます

 

「監督官とは愛の歓びを交わすためではなく、報告書をまとめるために創られた存在だからである。」

 

「『あまり頭がいいとはいえない。だからこそ役に立つ。』

 

「『あの男はなにひとつ考えない』とリヴィエールは評していた。『おかげでつまらない間違いをせずにすむ。』」

 

「『決まりというものは宗教の儀式に似ている。不条理にみえても人間を鍛える。』公平に見えるか不公平に見えるかは、リヴィエールにとって問題ではなかった。(中略)リヴィエールにとって人間とは、こね上げられるべき蠟の素材にすぎなかった。この物質に魂を与え、意志を創造しなければならない。だが峻厳さで人びとを服従させるのではない。自己の限界をうち破るよう彼らを駆りたてることが重要なのである。あらゆる遅延を罰すれば、それは不公平なことだろう。しかしすべての飛行場に、出発への意志をもちつづけるよう仕向けることになる。彼はその意志を創り上げていた。飛べない天候を、休息への誘いであるかのように歓迎する、そんなことは誰であろうとゆるさない。ゆるさないからこそ作業を貫徹する気概が生まれ、名もない雑務係までが待機時間をひそかな屈辱と感じるようになる。鎧の一瞬の隙さえ見のがさなくなるのだ。『北の方角に晴れ間あり、出発!』」

 

「リヴィエールは折りにふれてこう口にした。『この男たちは幸福だ、自分の仕事を愛しているからだ。なぜ愛しているかといえば、わたしが厳格だからだ』おそらくは部下たちを苦しめていただろう、しかし強い喜びを与えてもいたのだ。『ひとは追い込まなければだめだ』と思っていた。『苦しみと喜びが共に持つ、強い生に向けて追い込んでやらなければだめだ。それ以外、生きるに値する人生はない』」

 

「リヴィエールはいつも断言していた。『音楽家が不眠で美しい曲を書くのなら、それは美しい不眠というものだ。』あるときなど、現場主任のルルーを指してこう言った。『美しい者として眺めたまえ、恋に無縁なあの醜さこそを、美しいものと呼ぶべきだから』。ルルーの偉大さはすべて、生涯仕事にうち込むしかなかったその醜さのおかげだというのである。」

 

「『君を本来の立場に戻してやろう。たとえ疲れたにせよ、君を支えるためにパイロットがいるわけじゃないんだ。君は責任者だ。責任者の弱みなど、もの笑いの種だ。さあ書きたまえ』『あの……』『書きたまえ。“監督者ロビノーは、かくかくの理由でパイロットのペルランにしかじかの処罰を与えるものである”。理由は適当に添えておきなさい』『社長!』『いいから、ロビノー、言われたとおりにするんだ。部下を慈しめ。だがそれを口に出すな』」

 

部下を慈しめ。だがそれを口に出すな…

ぐっと来ます

 

「針の角度が開くにつれてものごとが進んでいくはずなのに、そうはならない。待たされる時間をまぎらわそうとリヴィエールは部屋を出た。役者のいない部隊のように、空はがらんと空虚に見えた。『こんないい夜をむだにするのか』。空は晴れ、満点の星が煌めいている、この星々、聖なる道標。この月、浪費されたみごとな夜の金貨。それを窓から恨めしく眺めた。」

 

「そのときもリヴィエールは今夜のように孤独を感じたが、すぐにその孤独の豊穣さを悟ってもいた。」

 

孤独の豊穣さ…!かっこいい… 

 

「リヴィエールが立ち上がると、事務員がきて言った。『業務報告です、ご署名をいただけますか』『よろしい』 リヴィエールは相手に篤い友情を感じた。この事務員も夜の重荷を担っているのだ。『戦友だ』と思った。『だが、わたしたちの絆が夜勤を通じてこれほど強まっていることなど、おそらくこの男はけっして知ることがないだろう』」

 

「『わたしは公平なのか、不公平なのか? どうでもいい。罰すれば事故は減る。事故の原因となるのは人間ではない。ひとたび罰しようと思ったらすべての人間を罰しなければならなくなるような、ひとの手には負えない漠然とした力なのだ。わたしがごく妥当に、穏当に処していたら、夜間飛行は毎回死の危険を招くものになっていたはずだ』」

 

「『ものごとというものは』と思った。『ひとが命じ、ひとが従い、それによって創り出される。人間は哀れなものだ。そしてひと自身、ひとによって創られる。悪がひとを通じて現れる以上、ひとを取り除くことになるのだ』」

 

「ものごとが決するさまは奇妙だ、とリヴィエールは思った。『漠然とした大きな力が立ち現われる。それは原始林を生み出し、成長させ、支配する力と同じものだし、大きな仕事の周辺で、いたるところに出現してくる浸食力とも同じなのだ』。小さな蔓に絡みつかれて倒壊してしまう神殿を思い浮かべた。」

 

「妻のほうは、制覇されるために放棄されるものへと思いがむかう。『自分の家庭がきらい?』『自分の家庭は好きだよ……』 だが夫がもう歩み出してしまったことはわかっていた。広い肩はすでに大空に立ちむかおうとしているのだ。」

 

パタゴニア便の乗務員たちを思うと、リヴィエールは胸がしめつけられた。人間の行動、それも人びとのために橋を建造するような行動でさえ、個の幸福をうち砕くことがあるのに、問わずにはいられなかった。『何の名において?』『二人とも』と思った。『いま逝こうとしているかもしれないあの二人とも、幸福な人生を送ることができたはずだ』。夕暮れのランプが金色にともされた食卓、その聖域でうつむいて祈る顔が心に浮かんだ。『自分は何の名において、そこから二人を引き離したのか』。何の名において、個人としての幸福を剥ぎとったのか。 最優先されるべき原則は個の幸福を守ることではないのだろうか? だが自分がそれを破壊したのだ。とはいえあらゆる金色の聖域は、いつかは蜃気楼のように消滅してしまう宿命にある。リヴィエールよりさらに無慈悲な、老いと死に破壊されるからだ。おそらくは救うべき別の何か、より永らえる何かが存在するのだ。おそらくは人間のその領域に属するものを救うために、リヴィエールは働いているのではないか。そうでなければ、この活動を正当化することなどできはしない。」

 

「『愛する、愛する、ひたすら愛する。それでは行き詰まるだけだ!』 リヴィエールには、愛するという責務よりさらに重い責務があるという漠然とした感覚があった。」

 

「リヴィエールは、野外音楽堂のあたりを散策するささやかな街の民の姿を思い出した。『首輪につながれた飼い犬のような、あの種の幸福……』と思う。 」

 

この抜粋の量(笑)

興奮のあまり、PCのキーを叩きまくる私

 

魂にぐっとくる言葉の羅列に、今自分は間違いなく世界の遺産を体感しているという実感がわいてきませんか?

そして何よりも、あまりにも遠い世界の物語でありながら、不思議とこれまでの自身の経験に触れる部分があります

これが、人生折り返しを迎えた読書の醍醐味なのかもしれませんね…(遠い目)

 

 

ちなみに、その他、最近読み終えた本はこちら(あれだけ書いておきながら、早速、世界の名作とかじゃなくて恐縮です)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

 

 

「さあ、俺を笑いたいんだろ…ほら、手に取れよ…笑えよ…」と言わんばかりのこの表紙…!

こんなあからさまな挑発に乗るわけにはいかない!

と、ずっと本屋で眺めるだけに留まっていたのですが、とうとう、というか、まんまと、手に取ってしまった…!

 

お、面白かった…!

青春物といってもいいのではないでしょうか

この著者、本全体から醸し出されている通り、バッタに本気!そして、すごく頭がいいし、気前がいい!

昆虫学者になるという夢に向かって、アフリカ(国名忘れた)の砂漠でバッタを追い続ける創意工夫は、本当に素晴らしい!

 

著者がアフリカへと向かう飛行機の中で、いろんなものに別れを告げる場面は、すごく共感しました

私もはじめてモンゴルへ行った時、大事にしていた腕時計を、形見分けのように妹にやろうとしたもんです(「時計は使わへんから、いらんわ」と冷たく断られましたが)

 

という訳で、この作品からの抜粋はこちら

「そもそも誰かを惹きつけるにはどんな手段があるか。自然界を眺めてみると、昆虫は甘い蜜や樹液に惹きつけられる。人も同じで、甘い話や物に寄ってくる。みんな甘い物好きだ。そこでピンときた。『人の不幸は蜜の味』で、私の不幸の甘さに人々は惹かれていたのではないか。実感として、笑い話より、自虐的な話のほうが笑ってもらえる。本人としては、不幸は避けたいところだが、喜んでもらえるなら不幸に陥るのも悪くない。この発想に至ってからというもの、不幸が訪れるたびに話のネタができて『オイシイ』と思うようになってきた。考え方一つで、不幸の味わい方がこんなに変わるものなのか。」

 

最高のポジティブシンキング!

 

 

あと、本ではありませんが、最近、姪っ子に勧められて観た映画がこちら


映画『キングダム』本編映像

 

チケットが安くなる映画デーを狙ったのはいいのですが、血迷って朝一のチケットを予約してしまい、当日、家を出るのが遅れた結果、映画館まで高速を使ってひた走るという、本末転倒な結果になってしまったのでした(しかも、朝早すぎて映画館の入り方が分からなくて迷った)

 

この作品、大沢たかおの見事な役作りが高評価ですが、私の一押しは、その隣にいた要潤

今回、特に出番のない役だったものの、

「おお!スクリーンの隅で何か光ってると思ったら、あれはもしや要潤…!?」

出番の度に地味に驚かされつつ、映画は無事、エンドロールを迎えたのでした

 

 

 

ではとりあえず、本日はこのへんで