【一部、残虐な表現があります。ご注意ください】カンボジアの思い出①
書くべきかどうか、ずっと迷っていたことがある。
この旅を書くために、ブログを開設したというのに、何も書けなかった。
書くのが、怖かった。
「いまさら、私が書かなくても。」と思ったりした。
でも、やっぱり、知ってほしかった。
私が、あの日、あの場所で感じた、悲しみや怒りを、少しでも共に感じてほしい。
そして、何も知らない幸せな人間でいることよりも、この事実を心の片隅にでも留め置いて、いつでも立ち上がれる人間であることを選び取ってほしい。
誰かの心に何かを感じてもらうために、書く。
私にできることは、書くことだけだから。
1975年から1978年までのたった4年間で、200万から300万人の犠牲者を出したと言われる、ポル・ポトの大虐殺。
当時、カンボジアは鎖国状態にあり、国内で何が起きているのか、誰にも分からなかった。
流れてくる話を漏れ聞いた近隣諸国の人々も、そのあまりの内容に、尾ひれのついた噂だと思っていたという。
プノンペン市内にある、トゥール・スレン収容所博物館。別名S21。
ここを訪れた観光客は、かつては中学の校舎だったという収容所を、一室ずつ見て回ることになる。
まず最初の部屋に置かれていたのは、錆びて歪んだベッド。
壁には、ベトナム軍によって開放された直後のパネル写真がかけられている。
写真の中のベッドは空ではない。
ガリガリにやせ細った遺体が、足かせに繋がれて、ベッドに横たわっている姿が写されている。
その床には血糊が広がっている。
そして、私の目の前にあるものと同じブリキの小箱。
部屋ごとにおかれたベッドの足元や、狭い収容スペースの床など、どこへ行っても、必ず小箱が置かれてあった。執拗なまでに。
一ヶ所に一箱。つまり、一人に一箱。
私には目的が分からなかった。
食事の際の器にでもしたのだろうか?と思っていた。
収容所の所々にある黒ずみは、血の跡だという。わざと掃除せずに、残してあるのだそうだ。
階段へ向かう廊下には、最近、誰かが鼻血でも滴らせたのか、鮮血が落ちていた。
その生々しい色が、今も目に焼きついている。
看守たちは、およそ思いつく限りの残虐な方法で、囚人を拷問した。
囚人が釈放された場合、拷問の事実が明るみに出る恐れがあったため、絶対に自白させなければならなかった。拷問はますます過酷を極め、トゥール・スレン収容所は、囚人にとって決して生きて出られない場所となった。
ポル・ポトは、知識階級の人間を恐れた。
医者や弁護士、教師、技術者を弾圧し殺した。
留学先にいた者にも、「カンボジアには、君達の力が必要だ、ぜひ協力してほしい」と呼びかけ、帰国した者を次々に処刑した。
やがて、眼鏡をかけている、腕時計をしている、字が読める、目鼻立ちが整っている、などの理由から人々を捕らえ、殺害。
ポル・ポトは、「腐った林檎は、箱ごと捨てなくてはいけない」とし、犯罪者の出た家族は、全員殺害した。
やがて、党員達やその家族も、処刑の対象となっていった。
たくさんの写真が並べられていた。処刑された囚人の写真だ。
涙を流す子ども、怯える男性、虚ろな目をした母親・・・。
どこまで行っても、写真が終わらない。死を待つ人の顔、顔、顔、顔・・・・。
ある一室では、ドキュメンタリー映画を流していた。
それは、元ポルポト派だった女性が、近々結婚する娘に、自身の過去を話すべきかどうか、葛藤するという内容のものだった。
ポルポト派は、10歳以下の子ども達をすすんで勧誘し、洗脳し、兵士に育て上げた。
中庭の一角に、後ろ手に縛られた人形が置かれていた。
囚人は拷問中に気を失うと、この柱に逆さ吊りにして、排泄物の入った壷に何度もつけられたという。
中庭中央には、慰霊碑が建てられていた。
看守たちは、処刑した人間について、克明に記録を残していた。
ベトナム軍の侵攻によって、撤退する際、ポルポト派は生き残っていた囚人14人を殺害した。
中庭の端には、この14名の墓がひっそりとたたずんでいる。
一人に一つ与えられていた、ブリキ缶の謎。
その答えが分かったのは、博物館を出る直前だった。
かつてはここの囚人で、奇跡的に生き残った7人のうちの一人であるおじいさんが、入り口付近で、自叙伝を売っていた。
彼は、話しながら、舌を出し、何かをなめるマネをして見せた。
現地在住の友人が、彼のカンボジア語を日本語に訳してくれた。
「ベッドの横に銃弾の箱が置いてあったでしょ。囚人達は、あの中にトイレをさせられたそうです。そして、箱の中身を全部食べないと、殺されたそうです。」
4年間で、200万から300万人の犠牲者を出したと言われる、ポル・ポトの大虐殺。
これほどの犠牲者を出しながら、何十年も放置され続け、20世紀最大の汚点と言われた。
最高責任者であるポル・ポトは、罪を問われることなく、1998年に病死。
2006年にようやく始まった裁判は、様々な面から難航。