言語習得とは、すなわち別人格を生み出すことである
皆さん、こんばんは。
ブログをはじめて、早3週間が経ち、気が付いたことがあります。
それは、ネタとは、神から与えられる恵みである、ということです。
これまでも、ちょこちょこFBなんかに小ネタをアップしたりしていましたが、あれはやっぱり、書かされていたような気がする・・・。
そう思わされるくらい、この3週間(特に後半)、毎日書くことがなかった・・・(カンボジアの記事は一生懸命書きました)。
正確には、どこにも、誰にも、あたりさわりなく書けるネタが思いつかなかった、といったところ。
以前、職場でHPの更新を任されていたことがあったのですが、面白がって、毎日アレコレ書いていたら、ネタにされた方々から苦情が、くるわ来るわ。
「これじゃ、オレ、アホやんけ!」
「いや、大丈夫です。ちゃんと、イニシャルにしておきましたから」
「Hってオレしかおらんやろ!」
みたいなやりとりが、(特にH氏との間で)頻繁に起こってました。(見てらっしゃらないと思いますが、H先生、お元気ですか)
こうして、周囲に気兼ねしながら、ネタを厳選し、結果何も書けん、というのも、私が大人になった証だと言えましょう。
さて、タイトルについて。
私は今、モンゴル語の習得に日々励んでいるわけですが、以前の私とは、全く異なる第二の人格が形成されてきたことに最近、気が付きました。
日本にいた頃は、おしゃべりで、揚げ足取りの皮肉屋で、周囲を鼻白ませていた私ですが、言葉が通じない国へ渡り、一切の武器が封じられた結果。
誰に話しかけられても、恥ずかしがりながら、小さな声で、一生懸命考えて答え、そして、会話が少しでも続くように片言で質問する、無口で内気なガンバリヤさんのキャラに様変わりしました。
感想を聞かれても、
「はい。私、これ好き」
「ありがとう、すごくおいしいです」
「すごくいいと思います」
などと、答えます。
「まぁ~、別に悪くはないと思うけど~。でも、もうちょっと、あのへんがああなってたらよかったかな~。そこだけ残念かな~」
なんて、絶対に言いません(というか、言えません)。
単に、難しい言葉を知らなくて、微妙な感情を説明できないだけなのですが、我ながら嘘のような豹変振りです。
自分で言うのもなんですが、こんなかわいい自分、生まれて初めて見ましたよ。
あの生意気な私はどこへ行ったのでしょう。
余計な言葉を知らなければ、人って、こんなに素直になれるもんなんですね。
困っている友達に、
「私、あなた、タスケルー!」
とか言ってる私は、もう、なんというか、我ながら、ぎゅっとしたくなる可愛らしさですよ(あ、すみません、蹴らないでください)。
が。
先日、面白い論文について書かれた、雑誌のエッセイを読みました。
『倫理観は言語に左右される』というものです。
提示されるシナリオはこうです。
「あなたは大柄な男性とともに、線路を見下ろす橋の上に立っている。線路上には5人の人がいる。そこへ、列車が近づいてきた。線路上の人は気付かない。さて、あなたはどうするか。
①大柄な男性を線路上に突き落として、5人を助ける。
②5人を見殺しにする。」
ちなみに、英語だとこんな感じです。
Here's one scenario from the study. You and a very large man are standing on a bridge overlooking some railroad tracks. A small train is coming and five people are on the track.You have a choice; push the large man onto the track ahead of the train to save the five people, or do nothing and the five people will die.
なぜ、英文を写したかというと、その研究によれば、このシナリオを第二言語で読むと、①の選択肢を選ぶ可能性が高くなるのだそうです。
第二言語は、情緒面での距離が生じ、実際的な判断ができるのだとか。
そして、母語だと感情移入度が強まり、実利の低い判断になるのだそうです。
まぁ、色んな意見があるとは思いますが、私の経験から言うと、これは十分、あり得ることだと思います。
海外で暮らしていると、日本語が第二言語、第三言語、という人に会うことがあります。
全く違和感がないくらい流暢に会話が進んでいくのですが、時折、「あれ?」と、立ち止まらされることがあります。
見えない壁があるのです。
(あれ?今、私を外側に置きましたよね?私は同じ場所に立たせてもらえないんですか?)という壁です。
これは相手の(もしくは自分の)意識の中に存在する壁なので、ベルリンの壁のように、ハンマーでは崩せません。
自説になりますが、言語を習得する、第二人格形成過程においては、母語を使用する際の、傷つきやすい心を封じ込めるという作業が、一手間入ってくるのかもしれません。